如水館の教育

教育方針

知力 「知力」の源は「基礎・基本」にある

何をおこなうにしても「基礎・基本」の繰り返しは重要な要素です。
一見単純で面白味のない「基礎・基本」の反復は、往々にして疎まれます。しかし、「基礎・基本」を蔑ろにし、付け焼き刃の技法やその場限りの方法で誤摩化すことを続けると、その技法や方法は表面的な成長に止まり、本当に大事な瞬間にメッキは剥がれ落ちることとなるでしょう。「知力」とは単なる思考力や知識の集積とは異なります。「頭の片隅で考えたり憶えたりするのではなく、毎日毎日、何度も何回も、自らが意識をもって繰り返し、自分の全身に教え込むことによってのみ培われる」、そう私たちは考えています。これは所謂「学力」だけではなく、部活動の練習や学校行事、日々の「挨拶」や「掃除」などの学校生活、クラスや部活動での人間関係でも同じです。「知力」の源は「基礎・基本」にこそあるのです。私たちは「基礎・基本」の習得を繰り返し説き、「知力」を獲得するためのサポートを惜しみません。

自立 自らの力を活かし、社会で生きるために

「自立」はよく使われる言葉・・・言うは易く、おこなうは難い言葉です。
失敗をしたとき、挫けそうなとき、苦しい状態にあるとき、私たちはそれを自らの力不足ではなく、他者や社会や環境の責任にし、その場を取り繕う言い訳を考えます。あるいはそれを口実に自分をも納得させ、その場で諦めようとしがちです。そんなときもう一度考えましょう。「今、私にできることは何か?」「自分自身が何をすべきなのか?」・・・これを自問自答することが自立への始まり、自分に備わっている本来の能力の発見のきっかけとなります。そうなのです。自らが持っているそれぞれの力を輝かせ、「なくてならない人」となるためには、自ら人生を切り開き主体的に行動する力、その力で周りの人まで動かし、他者をも幸せに導いていく力が必要なのです。自らの能力を社会で活かすこと、これがそれぞれに与えられた使命であり、また生きる目的であると考えます。私たちは様々な取り組みをとおして、「自立」のチャンスを用意します。

共生 分かち合うことで感じる「幸せ」

自らの力を十分に発揮する人のみが幸せを感じるのでしょうか?
人は社会という枠組みのなかで生きていく以上、完全に自分だけで生きていくことはできません。そしてまた、人はひとりでは幸せになることはできません。分かち合うからこそ、幸せを感じることができるのです。しかし、価値観や世界観、意見や嗜好が異なるものどうしが同じ社会で共に生きていくことは決して容易くないことも、また事実です。価値観や世界観、意見や嗜好が異なるものどうしが互いにわかり合い、認め合い、支え合い、分かち合いながら成長し合う。これが本来の意味での「共生」に他なりません。「個性」を口実に他者を傷つけるのは「個性」の意味をはき違えた行為です。また「自由」を語り我侭を押し通すことは他者の「自由」を侵害することになりかねません。「個性」は「共生」の意識を持ってこそ初めて輝きを放ち、「自由」は周りの人々と分かち合ってこそ初めて光を受けるものです。私たちは、他者の個性や存在を尊重する意識、つまり「共生」の意識を育んでほしいと願っています。

礼節 知恵の宝・共生の形

節度を持った礼儀は私たちの生活を豊かなものにします。
礼節は長い歴史のなかで社会を成り立たせ、私たちを導いてくれた人類総体の「知恵の宝」であり、「共生の形」です。「本音と建前」「外見と中身」といった 慣用句で、外に見える形は往々にして軽んじられがちです。しかし、「本音」と「建前」は別々に存在しているのではなく、また「外見」と「中身」も本来は表裏一体のものです。心のこもらない形ばかりの姿勢は礼を失し、いい加減な態度では相手に敬意を表すことはできません。内面は自ずから見える形となって表出し、外見から自ずとその中身が見とれるものです。建前や外見を軽んずることは、その本音や中身を軽んずることと同じです。礼節が欠けた状態で、自らの幸せを願うのは不可能であり、当然、他者の幸福を叶えることもできません。私たちは常に姿勢を正し、校内を「礼節」で覆い尽くしたいと考えています。

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