如水館について

教育理念

「学力低下」と「学力向上」の連呼のなかで

近年「学力低下」の話題を頻繁に耳にしますが、日本の教育水準は本当に低下してしまったのでしょうか。確かに昭和50年代、日本の教育水準は世界一を誇っていました。数学オリンピックや学力の国際比較で優秀な成績をおさめていたのです。その日本が現在は五位以下だということです。しかしこの五位は、果たして「低くなった」という表現が相応しいのでしょうか。また、日本よりも上位にランクされるようになってきた国々はシンガポール、韓国、台湾そして香港といったいわゆる現代教育制度の後発国であり、戦後日本が念頭におき、ライバル視していたアメリカやフランス、イギリスやドイツではないことも併せて考えれば、「学力低下」を声高に嘆く必要はないのです。重要な問題は他にあることに目を向けることが必要なのです。今その判断を誤れば日本の21世紀の発展は有り得ません。アメリカやイギリスなどでは、学力低下や荒れる学校の問題に対する施策はほぼ完了しています。特にアメリカにおいては、今回の学力国際比較は日本よりも下位にありながら、冷静に受け止めています。 アメリカにとっては学力とは中等教育段階で判断すべきものではなく、高等教育終了時、あるいは社会に出た後に評価するものだと考えています。この考えこそが先進国である現在の日本に本当に必要なのです。目先の大学受験や就職のために学力が必要なのではなく、人が幸福に生活し国家・社会が発展するために、子どもたちの学力を考えることが日本に必要なのです。日本はもはや発展途上国ではなく成熟した先進国なのです。日本が21世紀に発展を維持でき得るかどうかの鍵は次世代を担う子どもたちです。狭隘で短期的視野しか育てられない学力観では日本の将来はありません。「学力」とは「生きる力」を育てるための基礎でありデータ・ベースに他なりません。データばかりを詰め込んでもその運用力を育てることを怠っては、せっかくのデータは生きてきません。社会に蔓延するフリータやニートの問題は、学校や保護者が、子どもたちが自ら課題を発見し、考え、判断し、行動することによる「生きる力」の育成を疎かにしてきた結果なのです。 現在の日本人は、教育は国家社会の形成者を育成するためのものではなく、個人の経済と密接に一体化させてしか考えていません。生活の安定、経済的な安定が第一と考えるからでしょうか、景気が悪くなれば国公立志願者が増え、公務員志願者が増えるといった状況です。そういう状況で保護者のニーズが決まり、その保護者のニーズによって敷かれたレールの上を生徒たちが走るように組み込まれていきます。こういった教育の繰り返しで本当に日本の将来があるのでしょうか。教育指導要領にも「自ら考えて課題を探して解決させる能力」を謳い上げてはみたものの、具体的には学校教育においての「総合的な学習」にしか現れませんでした。反対にその反動となって現れた「学力向上」の方はそんな日本人の体質にマッチしたためか、現場での受け入れは素早く積極的なものとなりました。「学力向上」の方が、より具体性があり、達成感があり、共感が得られやすく、一生懸命に取り組むことができたのです。詰め込んでステップ・アップしようとする教育システムは戦後の経済成長とともにありました。 しかしそれは国際的な学力水準に一生懸命追いつこうとしていた時代の考え方です。現在は既にその段階を越えています。しかし越えているはずなのに、未だにそこに執着しているのです。国際的な学力水準から抜けだし「ゆとり」を求めた時期もありましたが、これは走り続けた高度経済成長後の日本人の体質にはなじみませんでした。もう一度大きく振り子が戻り、「学力向上」が叫ばれ始めたのです。しかし知識の詰め込みのみの「学力向上」で本当に日本に、次代を担う子どもたちに、幸福が訪れるのでしょうか。私たち教育に携わっている者がどのような日本をつくっていくのかというビジョンなしにその重要な現場を担うことはあってはならないことだと考えます。しかし、実際は本来日本人が持っていた良き歴史・文化を守っていかなければいけない心を置き去りにし、対症療法的な対応に終始しているのが現在の日本の教育の現状のように思えてなりません。 昔の学校の方がよかったという短絡な考え方はしたくはありませんが、現状の日本の学校システムは多くの期待に応えようとするあまり、様々なニーズを教育のなかに取り込み、それらが積み重なるにつれて矛盾や消化不良を生じ、生徒や学校に余裕がなくなってしまっているのが現実です。

「学力」と「生きる力」

学習指導要領が目指す「生きる力」のある子ども像は、「確かな学力」を持った子どもです。では、「確かな学力」とは何か。もちろん、知識や技能は大切ですが、単なる知識の量だけでなく、学習指導要領では、以下のような総合的な力を「学力」ととらえています。「知識や技能を身につけ、活用する力・学ぶことへのやる気・意欲・自分で考える力・自分で判断する力・自分を表現する力・問題を解決し、自分で道を切り開いていく力 ...」 これが、先生を変え、授業を変え、評価を変え、子どもたちを変え、そして学校を生まれ変わらせるのです。 (文部科学省 保護者向けパンフレットより) 平成14年、小渕総理大臣の教育改革国民会議を受け、文部科学省は新しい学習指導要領を出しました。現行の学習指導要領です。ところが、実際に公立学校が今取り組んでいる「教育改革」はその一部でしかなく、根底のところではもっと大局的に日本の教育を捉えようとしていました。この学習指導要領では「学力」を単なる知識の量のみではなく、学ぶ意欲、思考力、判断力、表現力まで含めて捉え、特に学習への関心・意欲・態度や将来の生活に関する課題に適応する能力を重視しています。新学習指導要領の前提には、現代の日本のように成熟している社会には以前の発展途上であった頃の詰め込み教育は相応しくないという考え方があったのです。しかしこの改訂の直後「ゆとり教育」はその名称が短絡に誤解された為もあってか、学力低下を招くという不安を生み、世論の批判を浴び、今日の声高に叫ばれている「学力向上」に俄に取って代わられることとなってしまいました。大局的な観点から見直されたはずの日本の教育に、対症療法的な反動がおこり、顕在化していったのが「学力向上」 の連呼でした。「学力向上」は「ゆとり教育」よりも具体的であるだけに、社会的な同意を得易く、公立学校の現場では混乱をきたしながらも「学力向上」に対応した様々な取り組みが矢継ぎ早に講じられてきたのです。そしてまた、この公立学校の取り組みは想像以上に本格的で、急速なものでした。しかし、この「教育改革」はある意味非常に短期的な視野に立ったものといわざるを得ません。「学力向上」の掛声のなかで、教科の学習能力を上げるということのみが教育のレベル維持にとって大事であると勘違いされている現状は、いうなれば昔と比べて生徒の学力が落ちているという危惧に端を発したもので、新学習指導要領で訴えた「生きる力」を育むための「ゆとり」とは逆行した動きです。文部科学省が提唱した「ゆとり」は、旧来の詰め込み教育から脱皮し、子どもたちが自ら生きる力を育む為に不可欠ですし、今後その重要性は増してきます。ところが、皮肉にも学校現場にはそれを実践する為の「ゆとり」がなかったのです。 現在の日本の教育制度に反省点があるとすれば、それは単に目先の教科学力ではなく、長期的な視点に立って真の学力をどのように獲得させるかという点の見落としだと考えます。何の為に学ぶのか、学んだものを如何に活かすべきなのか、その為には何をどのように学べばよいのかは、軽視されてしまっています。大学入試を例にとってみても、昔は自分自身で考え、判断し、行動した上で大学へ進んでいたように思えます。今日のようにすべてを親、学校、塾、予備校が設定し、用意したレールの上を自ら考えることなく乗っかっている状況で果たして本当に学力を伸ばすことができるのでしょうか。日本人は、他者との比較において、上位にある者にキャッチアップすることを目指して競争に参加することは得意です。その向上意欲が今日の日本を実現したのですが、いざ世界のトップクラスの経済的豊かさを獲得した現在でも、人生の最終目標としての人間的な豊かさに目を向けることなく、日常に翻弄され、今日や明日といった短期的で、且つ狭隘な視野でしか自己と向きあう余裕が持てなくなっているのです。 しかし国際的にみれば、経済の低迷や様々な社会問題を抱えながらも日本は、世界のためにリーダーシップを発揮しなければならない責務を負う経済大国であり、また21世紀の世界の発展のためにも貢献しなければならない責務を担っているのです。文科省が定めた本来の学習指導要領の狙いは、山中学園が設立当初から教育理念として実践してきたものです。「生きる力」の育成を時代の要請に応えながら実践した結果、多くの卒業生が地域社会において「なくてならない人」として活躍しています。自らが事業を起こし、代表として活躍したり、様々な組織の重要なポストを担っていたりする卒業生たちの活躍に、私たちの忘れがちな建学の精神の本質を改めて認識する場面は多いのです。

如水教育における「生きる力」の育成

建学の精神を具現化するためにはその教育の中心に徳育を置いています。 『如水教育』を展開する上で目的とするのは、偏差値でもなければ、クラブの成績でもありません。確かに生徒や指導にあたる教職員の一人ひとりにとってそれらの目標は大切ですが、大学進学や全国大会への進出は目的ではなく目標であり、それらはそれぞれに人間教育を掲げる『如水教育』にとって「生きる力」を育むための手段です。生徒が目標に向かい日々一生懸命努力する姿は美しいものです。それが受験勉強であろうが、クラブ活動をはじめとする課外活動であろうが、学校行事であろうが、一生懸命に取り組む姿のなかに「なくてならない人」を実現する力の育成があり、一人ひとりがこの理念のもとで基礎的素養を身につけていくのです。たとえ日本の教育が競争意識と市場経済に翻弄されようとも、本学園は教科学力のみに焦点を合わせた「学力向上」を目指そうと考えてはいません。本学園においての「学力」はあくまで「水の如くなくてならない人」の育成のために必要な基礎的な知識なのです。同様にクラブ活動や行事をとおして育成される力も生きる力を育むための基礎的データでしかありません。最終目標ではないのです。本学園は、そうした基礎の積み上げの上に運用できる力の育成に重点を置かなければなりません。そして、留意すべきは、日々の教育は常に「水の如くなくてならない人になれ」という建学精神に照らし合わされ、『徳育』を基底に置き、その礎の上で『知』『体』『技』を磨いていくという姿勢です。 本学園の教育はまさしく今の指導要領の標榜する学力観を有しており、他校とは一線を画しています。しかし、そのことがいつの間にか忘れ去られ、ややもすると偏差値受験教育や就職資格教育が最終目標であるかのような教育にスライドしてしまう危惧もあります。今後公立学校がこうした教育を志向するなかで、本学園の教育も油断すれば日本全体の教育傾向と同調した詰め込み教育の呪縛に飲み込まれる危険性はあるのです。実績が問われる大学進学への取り組みにしても、「詰め込み型の教育から離れると周囲から手抜きに見られてしまう」という呪縛により、生徒が学校に滞在するあいだ、少しでも教員による教科教育の時間を確保しようとしてしまいます。クラブ活動も同様です。生徒自身が考え判断し、行動する力を育むことは効率が悪く手間隙のかかることだけに、どうしても教員や指導者が設定してしまいがちになってしまいます。そうした呪縛から解放されない限り、次のステージは見えてきません。過去のデータを見てもわかるように、一方的に与える学習での成果には限界があります。また、いくら授業が効率的に魅力的におこなわれたとしても、それだけでは期待する成果を上げることはできません。生徒が実力をつけるには、自分で学習できる力こそが要求されるのです。あるレベル以上の有名大学に進学しなければならないと考える生徒には、自分自身の力で学習できるような生活習慣を身につけていく仕組みをつくっていくことが大切なのです。
如水教育は、「私たちは自らのみならず他者を幸福にする為に学ぶ」と考えます。それは、建学の精神である「水の如くなくてならない人」になる事によって実現できるのです。人が生きていく為の知識として、学力をつけることは大切なことです。また、学校の様々な活動を通しても知識は広がり、深まります。教室で学ぶ教科の学力を含め、知識は人が生きて行く上で重要な要素ですが、本当は知識を活用して幸福に生きる為の「生きる力」をつける事こそが大切なのです。言い換えれば知識とは「生きる力」を育む為の基礎的なデータにしか過ぎません。学力とは知識の一部であり、「生きる力」を育む基盤の一つです。ですから、如水教育は、知識としての学力以上に、知識を運用する力である「生きる力」の育成を大切にします。
「なくてならない人」になる為に、学校で具体的に取り組む活動には様々なものがあります。是非入りたい大学へ合格する為に更に高度な勉強をする人、クラブ活動で全国大会出場を目指して練習に打ち込む人、様々な表現活動を通して多くの人と感動を共有することを目指す人、海外での留学体験を通して英語力の向上を目指す人など、如水教育では子どもたちの持つ様々な個性を発揮できる「活動の場」が用意されています。それは学校生活における様々な活動を通して、皆さんが教室で学んだ「学力」をはじめとする知識を「生きる力」として運用できるようにする為の大切なトレーニングなのです。
本校の生徒には、単に教科学力だけとっても他の学校にない幅があり、子どもたちに求めるレベルを一元的に規定することはできません。最低限の「学力」をどこに求めるべきかを明確に提示し、其処までは全ての子どもたちに求めると共に、それ以上は子どもたちの個性の伸長を図ることによって生きる力を育成することが大切であると考えます。私たちが考える「将来、子どもたちが文化的な生活を営んでいくための最低限の知識としての学力」は全ての子どもたちに厳しく求めます。それを前提とした上で、更に高度な学力を身につけることによって将来に役立てたい子どもたちにはその欲求に十分に応えうる機会を提供し、文化、スポーツ、技術など個性を伸張することによって将来に役立てたい子どもたちには様々な場を提供することで、生きる力を修得し、社会から求められる人材となり得る力を育成していくことが本学園の教育理念に沿った「学力」の定義と考えます。教科の学習能力としての「学力」を否定するものではありませんが、私たちが育てようとしている「学力」とは、単なる教科学力ではなく、もっとダイナミッックな力だと捉えています。

その中で、特に如水館では国際理解教育を通した「生きる力」の育成を重視していきます。「国際人としての日本人」(他国の歴史・宗教・風俗習慣等文化を尊重し、理解を深めようと努力する姿勢を持ち、そのためのコミュニケーション能力を有する日本人)を育成することは、今日の教育が対応しなければならない緊急の課題です。その為にコミュニケーションの道具としての英語力の育成と、アジア諸国への国際理解と交流に力を入れています。ニュージーランドのヒルモートン校と姉妹校提携し、長期留学制度を導入しました。また、学校設定科目として短期の海外研修を積極的に導入し、タイ王国のサンタ・クルーズ・コンベント校、サラサス・エクトラ校との交流も行っています。こうした国際理解教育を含め、個性伸長のために用意された様々な活動は、生きる力を育てる為の手段であり最終目的ではないことを忘れてはなりません。私たちの最終目的はあくまでも「なくてならない人」として社会に貢献できる人の育成であり、自他の幸福の創造者であるのです。

グローバル・スタンダード(世界標準)への懐疑

グローバル・スタンダードの名のもとに、日本社会が文化的な植民地主義の受容にシフトするならば、学校教育は益々熾烈な競争原理に染まっていくことでしょう。巷でも、そして、学校現場でさえも、個人というものを中心とした能力主義、評価主義、成果主義というものがどんどん蔓延していますが、それらを無闇に取り込み、迎合していくことが日本社会にとって果たしてよいことといえるのでしょうか。
日本の強さというのは徳の高さであり、集団としての結束力と調和にあったことを再確認しなければなりません。その力が欧米にとっても脅威であり、日本の経済力を支えてくれた大きな柱であったのです。こういった歴史と文化に根ざした日本人の特性は、たとえ時代が変わっても失ってはならないものだと考えます。しかし日本社会はその日本人の特性を顧みることなく、欧米の基準であるグローバル・スタンダードを導入しようとしています。

日本人は集団のなかでは、結束力と協調、調和を重んじてきました。集団がある目的に向かうとき、自ずと集団のなかには能力差が生じます。しかしながら日本社会にはそれを補う徳の高さがありました。目的達成によってもたらされた果実は本来ならば貢献度の一番高い者が最も多く享受し、貢献度の低い者は僅かとなるべきだという感情は洋の東西を問わず共通です。ところが日本人は、多く受け取るべき能力の高い者には少し我慢をしてもらい、本来ならば僅かしか受け取るべきではない者には少し多めに分け与えてきた土壌がありました。このように、みなでその成果と富を分配するという精神は長い日本の歴史のなかで醸成されてきた文化がありました。そしてそれを矛盾なくおこなうためには徳の高さは不可欠で、個々の能力に関係なく、怠業をすることは許せないという共通認識がすべての人にあったのです。だから、誰もが一生懸命に努力をすることは怠りませんし、そうした風土のなかで相互扶助の精神が醸成され、日本人の協調と調和の精神が培われていたのです。それが現代の社会においては企業のモラルの高さを生み、年功序列と終身雇用を可能にしました。そうした制度は更なる勤労意欲を生み、人々は安心して仕事に励むことができ、企業は擬似的な家族集団として成長していきました。そしてその擬似的な家族集団としての日本企業の結束力は他の集団との間の競争力において優位を占め、その結果として国家間の競争において成功を納め、日本は世界で1、2位を競う経済大国になり得たのです。

欧米がこの日本人の特性に脅威を感じ、その弱点をつこうとしたのが関税の規制緩和、労働時間の短縮、日本への投資、外交交渉等だったのです。これらに対し、日本は自らの主義主張を明確に表現する資質、交渉能力や経済戦略を持たず、経済戦争の主導権を明け渡してしまうばかりか、国内の集団内部における求心力さえ失っていくこととなったのです。国内の組織内において能力の不均衡とモラルの低下が結びついてしまいました。つまり貢献度の高い人々の得た果実を、それ以上の努力をすることなく得ようとする個の発現、更には個人主義に名を借りた利己主義の台頭です。こうした風潮が従来の組織の力を弱め、バブルの崩壊とともに能力主義、成果主義にシフトすることを容易ならしめ、協調と調和を重んじ「和を持って尊しと為す」国民性を忘れさせていったのでした。これは高い徳の保持に努める教育が損なわれた結果であるといえるのではないでしょうか。私たち教育に携わってきた者の責任は重いと感じます。

現代社会において、日本人の集団主義は個性の埋没や自由の制約などの問題を孕んでいることは否めませんが、その一方で、国際社会における新たな課題に対しては、日本人の歴史と文化的背景のなかで解決策を見出すべきであり、安易なグローバル・スタンダードの導入が解決にはならないと信じています。木に竹を継いだような転換をおこなっても、二十一世紀の国際社会に貢献し、日本の発展に寄与する日本人を創り出すことは不可能なのです。
長引く経済の停滞とともに日本人に自信喪失間や閉塞感が蔓延している今、子供たちの世界においては規範意識や道徳心、自律心の低下が顕在化し、いじめや不登校、中途退学者の増加、学級崩壊、学ぶ意欲の低下などとして現れています。今一度、現在の日本の教育を根本から見直し、新しい時代にふさわしい教育として再構築する必要があります。
二十一世紀を切り拓く心豊かでたくましい日本人の育成を掲げ、現在、教育基本法の改正が審議されていますが、法の制定を待たずとも、その精神は本学園の建学の精神のなかにあるのです。社会の形成に主体的に参画しようとする公共の精神や道徳心、自律心を自ら涵養する心を育てるために、日本の歴史や伝統、文化の学びを通して、日本人としての自覚と誇りを持った国際社会に貢献しうる人材の育成を日本人自らの手でおこなう必要があります。そのためには、グローバル・スタンダードを安易に導入する前に、日本人が日本を正しく知ることから始めなければなりません。