如水館について

教育理念

私学の存在意義

私学の歴史を紐解いてみるとき、「どこにその原点を見出すか」にはいろいろな考え方がありますが、平安時代に遡れば空海の綜芸種智院、近代では吉田松陰の松下村塾、福沢諭吉の慶応義塾など、私学には、国が定めた官立の学校と同様に、古い歴史と実績があります。そして、いずれの私学の創立者たちも、自ら理想とする社会を描き、強い使命感と情熱をもってその実現のために教育を実践して来ました。私学に共通するのは、創立者に「将来の理想とする日本をこう考える。それに対して必要な人間をこういうふうに育てる」という先見性と強い使命感、情熱があることです。そして自らの理想を実現しうる明確な教育理念が存在しています。それが私学の原点なのです。独自の教育理念のもとでの特色ある教育の実践こそが私学の役割であり、存在意義であるのです。
『如水館』の前身である『三原工業学校』は、創立者の「教育こそが日本の発展の礎であり、今後の日本は工業立国により発展する」という展望のもと、「来るべき工業社会に貢献できる人材を育成していくことが必要である」という信念のもとに昭和15年に創設されました。時代の要請に応える為の具体的手段が工業教育でありましたが、創立者はその根底をなす人間教育を理念としています。それ故に昭和27年には、女子商業科を設置し、女性の社会参画を促そうとしました。「水の如くなくてならない人になれ」は時代の変遷に動じることの無い人間形成を図る教育理念であり、その理念の実現を目指す為の具体的な教育実践は、時代とともに変革し、如水教育は時代の要請に常に応え続けてきたのです。 そして今後も応え続けなければならないのです。
少子化が進む一方、公立学校が特色教育を標榜し、民間企業的な経営手法を採り始めている今日、改めて私学の存在意義が問われる時が来ました。本学園も、市場(生徒、保護者、地域の要請)のニーズにあわせながら顧客の満足度を高めることによって存続発展を図るという市場原理に基づく戦略のみでは、特色教育を標榜しはじめた公立学校との明確な差別化は図れなくなってきます。私たちは、時代への対応に傾注するあまり、ともすれば忘れられがちな建学の精神に常に立ち返り、「『如水』の精神が何であったのか」「本学園の歴史がどうであったのか」を絶えず確認したうえで進まなければなりません。その営みなくして、本学園の今後のあり方を考えるならば、もはやそれは「私学」とは言えなくなってしまうのです。私学は建学の精神の具現化に、その存在意義があり、その実践の中に特色教育があるのです。つまり、教育理念と特色教育とは一体なのです。

日頃如水教育に携わる私たちの実践の中には、たとえ無意識であっても、『如水』の遺伝子が間違いなく存在し、私たちは昭和十五年から流れている精神に抱かれながら教育の実践をおこなっているのです。それは、一般的には伝統とか校風と呼ばれていますが、私学の特色とは、それよりも、より鮮明なものでなければなりません。如水教育に携わる私たちは、時代における教育理念の具現化を担うと共に、『如水教育』の原点から今日までを次の世代へ引き継ぐ伝承者でもあるのです。

安定と発展の二十世紀後半から変動の二十一世紀に踏み込んだ今、混迷を深める教育の世界で、私学は今こそ日本のあるべき将来像を描き、私学ならではの教育を実践していかなければなりません。私たちは今一度私学の原点に回帰し、建学の精神と我々の使命を再確認し、本学園にしか実践できない教育理念の具現化を目指し、徹底した特色教育の実践を通して「明日の日本を担う子どもたちの為に、私たちに何ができるのか」を世に問わなければならないと考えます。ここに平成16年度、如水館中期計画を策定しました。

山中学園の建学精神

「水の如くなくてならない人になれ」

すべての命の源である水......
あらゆる生物にとって必要不可欠な水......
そして、自らの価値を存分に発揮している水......

「水」・・・。どこにでもある水。私たちは日ごろあまり水の大切さに気づくことなく、ともすればその恵みを忘れがちです。しかし、水は自然のすべての生き物の生命を育んでいます。そして、幾とおりに姿を変えつつも、その本質を失うことなく自らの価値を発揮し続けています。

本学園は校祖山中幸吉先生により「水の如くなくてならない人」を育てるために創設されました。
「幸福な人生を送りたい」......校祖の願いは、子どもたちのその思いを叶えるための礎を築く手助けをすること、その一点にありました。ところが近時、日本の教育は、この人生の大きな目的を見失ってしまったかのようです。受験教育など擬似的な目標はとりあえず設定しますが、その先は考えようとしなくなったのです。

中等教育において、人生を考えることは決して早すぎることはありません。その際、「人間はどのような存在で、どこに向かうべきなのか」という人間観なしに、教育を語ることはできません。また、そのためには人間(自分)を見つめ、人間を知ることも必要です。校祖は「人間は一人ひとりが世の中になくてはならない独自の使命を持って生まれたかけがえのない存在であり、故に一人ひとりが皆異なっている。そして、日一日と自らが創造的に変革し得る存在であり、社会との関わりのなかで育ち、いろいろな人や自然の支えによって存在しているものだ」と捉えています。
人はみな自らが幸福になるとともに他の人をも幸せにするために生きなければなりません。それが人生の目的であるはずです。しかし、ともすれば、そのために必要とされる能力は特別な才能を持っている人のみに備わり、自分にはそんなことはできないと思い込んでしまいがちです。走ることが速いとか、IQが高い等、先天的に決定されている力を「能力」であると、人々は捉えてしまいがちなのです。しかし、それは錯覚なのです。
『如水教育』では、「能力とは人が定めた目標に対し、それを叶えようとする力の総合である」と考えます。
人生の目的は自他ともに幸福になることにあり、その人生の目的を叶えるための能力は多様な力によって構成されています。計算や記憶といった知識や、思考力、創造力といった『知』。理性、情緒、慎重、大胆、やさしさ、思いやり、寛容、協調、忍耐、正直、感性といった人の精神活動をつかさどり、喜怒哀楽、快不快、美醜、善悪などを判断し、性格や人格を決定する『心』。そして汗を流し、行動を支える『体』。このように、人には『知』『心』『体』を構成する様々な力があるのです。
先天的に他人よりも優れた個別の力の存在はあるにしても、目的を有した「様々な力の組み合わせ」を「能力」であると考えるならば、自他を幸福にするために必要とされる多様な力の総体である「能力」にそれほど大きな個人差はなく、誰もが同じ位に持ち合わせているものだと、校祖は確信していました。建学の精神である「水の如くなくてならない人になれ」に込められた「人は誰しもが水のようにありふれた存在なのであり、尚且つ、水と同様に誰しもが貴重な能力を有している」という校祖の教えの根底には、こうした人間観があるのです。
「心」を高めるために「知」が求められ、「心」を具現するために「体」が求められるならば、「心」を育む、つまり徳を修めることを中心に据えながら「知」、「体」の個性的伸長を目指すことにより建学の精神である「水の如くなくてならない人」の実現を目指す実践こそが如水教育の使命と言えます。